金曜日のノート

ある日、突然EXOに落ちました

「岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」彼女がいる。それは追いついては消えること。

岡崎京子展 戦場のガールズ・ライフ」

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世田谷文学館で開催中の岡崎京子展に友人といってきました。以下は展示レポートでも岡崎京子論でもないです。足からず。

そもそも、岡崎京子にはまったのは、大学1年生くらいで、それから月日は刻々と流れたのに、やはり影響?を受け続けているという、十代の頃に宿したものは根深いというよりないです。

展示は、岡崎京子の年表から始まり、刊行作「東京ガールズブラボー」、「pink」、「恋ってどういうものかしら」などなどの原稿と、作品の解説。学生時代の投稿作品、プロ後のイラストのカットはアンナ・カリーナのように蠱惑的な女の子たち、アラーキーの肖像写真、ピチカートファイヴや他ミュージシャンの対談もありました。対談での言葉も漫画でのセリフのように、きゃぴきゃぴ感(この言葉は使用に耐えないのは知ってるがあえて)。

雑誌での連載や家族とのエピソード。お母さんがそれは美しくおしゃれで感心しました。さすがだなあと。アラーキーの写真もとても良い。作家本人が作品から抜け出てきたように錯覚します。

私は「リバーズ・エッジ」、「pink」、「恋とはどういうものかしら?」、「へルタースケルター」など、結構な代表作が好きですが、でも展示を見ていると、作品それぞれが記憶にありました。

私は東京出身でなく、それも合間って彼女には東京を感じます。都会、中心、ファッション、いわゆる東京に抱く感情だけでなく、人がたくさんいる土地の描写に東京を感じる。人口密度は高まると、空気は薄くなり、全体的に渇いてくるような。そんな東京を感じる。決していやではありません。

そして、岡崎京子の描く女の子が、やはり好きだと思いました。女の子という生きものが好きになります。自分が己として、突き進み、迷い、間違い、止まり、傷つけ、傷つけられ、愛し、愛され、結果何もなくてもべつによい。主人公たち、その個から滴り落ちた濃密な一滴は、やがて薄まり、いま、いまという時間の背景に溶け込んでいきます。光も影も地球の自転みたいに、その時々いる場所によって変化していく。

大事な事って、時間が経っても、どこか心に残るんだと信じているようなところが私にはあるのですが、岡崎京子の漫画を読んでいると、大事な事も大事な事として忘れていくのだなあと思ってしまいました。忘れてもよいのだと。

生理的、金銭的な言葉も岡崎京子の言葉に言い換えられると、とても楽。「お金でこんなキレイなもんが買えるんならあたしはいくらでも働くんだ」ー『pink』。

「トイレに散る赤をみてあたしは「ばらの花みたいできれいじゃん」と思った」ー『ねぇ、女の子って何でできてるの?』。これは生理中女子の数時間を描いた10p満たない作品の一節。生理時特有の憂鬱と、そういうときに思い出す昔クラスメイトだった潔癖性の女の子のエピソードが描かれています。私は共感よりも、最初にこれを読んだときにたぶん衝撃だったのでしょう。生理の時、頻繁に頭に浮かびます。

岡崎京子の漫画には、その世界と進んでいく物語の後ろに、いつも彼女の詩のような言葉が決定的にある。恋愛でも、SEXでも、ショッピングでも、女性、男性、フェチズム、家族。言葉が多いわけでなく、つぶやかれるように背景におかれている。 ちょっと、うつろな女の子の横顔と一緒に。

岡崎京子の不在。事故に合われてから、20年近く経ち、今回展示会に行って、彼女が51歳という事に驚きました。それからも女の子たちは生まれ続けていて。

現在の女子高生がよんだら、どういう感想を持つんだろうか。

岡崎京子と出会って、家族の単位も形も変わり、引越しを数回繰り返したわが本棚は蔵書整理で生き残った本のみがあります。もちろん、岡崎京子の漫画たちもいまもある。

私はいま、岡崎京子と出会った時に巻き起こった、自分のさまざまな感情の理由が少しずつわかり始めているように思っています。通り過ぎたから、きっともうすぐ忘れてしまうから、その前に蘇る記憶みたいな感じです。

展示を見終わったあと、私生活に疲れ気味で口数少ない友だちと駅までの道を歩きながら、私は岡崎京子の不在に東京の乾いた空を見上げるしかできなかったのでした。